ハーパー・リーガン

サイモン・スティーヴンス 「ハーパー・リーガン」について

 2008年3月7日ダン・レベラートとの会話より
 2008年ナショナル・シアターでの世界初演時公演パンフレットより

作品を書いている時、私は他の人の作品にインスピレーションを受けたり、怒りを覚えたりしたいのです。「ハーパー・リーガン」を書いている時、「私の作品はいくつか知ってるよね、誰の作品を読んだらいいと思う?」とニック・ハイトナーに聞いてみました。すると、エウリピデスを読めと言うので、それから二週間のうちにエウリピデスの作品を15本読みました。自分のイマジネーションをかき立てるためにです。私は文学や演劇ではなく歴史で学位を取ったので、演劇で絶対に読んでおくべき、いわゆる規範というような作品の知識が大きく欠落しています。それの利点は、そういう作品を読む時には、私は学者やファンみたいな読み方をしないということです。作家が別の作家の作品を読むというスタンスで、何かしら盗めないかという風に読むわけです。
エウリピデスの作品を読んで、共感するところが非常にたくさんありました。彼はまさしく戦争という文化を体現する詩人でした。われわれも戦時に仕事をしているわけで、戦争という文化は、形は違ってもやはりわれわれにも同じような影響を与えています。非常に興味深く思ったのは、政治的な大惨事が、これ以上ないほどの個人的な破滅として屈折して描かれている点です。これは普通家族の中で起き、罪を巡るもの、しばしば性的な罪に基づくものとして描かれます。国家を巡る大傑作が、たとえば母親を犯す話であることもあるわけです。政治的な舞台と、もっとも個人的で心理的な舞台はたいへんエキサイティングで、家族、罪、心の暗がりについてじっくり考える糸口になりました。

こうしたことに私は繰り返し愕然とし、ほとんど取り憑かれてしまいました。その結果、登場人物たちは神の存在によって心に傷を負い、影響を受け、あるいはコントロールされるほどになりました。年を取ると共に私は、思想家として、あるいは人間として、より強硬な無神論者になっています。人がいかに神の不在を前提に物事を理解し行動するかを模索することは、エウリピデスがいかに神々の存在を前提に人々が行動するかを探求したのと同じような手法で達成できるように思えました。

この芝居がナショナル・シアターで形作られた第二の方法として、毎週金曜日に台本のことを話し合う会議に出席し、昼食を取りながら台本を読み、話し合ったということがありました。ある日ニックが、たぶん挑発のつもりだったのでしょうが、こう聞いたのです。「どうしてウチの若手作家たちは女性が主役の芝居を書かないんだろう?」 これにはまったく頭に来ました。ちょうど、父親の死に際してストックポートに帰って来たある男の芝居を書こうと思ってたところだったのです。良く覚えているのですが、次の日曜の朝、家で着替えをしながらこのことについて考えました。自問しつつ「芝居のアイデアを人工的に思い付く方法というのはどんなものだろう! たとえば今書いている「セツ・ローガン」の場合、女性についての話にはなり得ない。だってたとえば最初のシーンはこういう風になり…こういう風になる…いやもっと面白く…」と考えて行ったのです。主人公を女性に代えたと仮定して芝居のアイデアをくまなく検討して行くと、たいへんな解放感を覚えました。まるでこれが、ずっと書きたかったのに、どういうわけかそのことに気づいていなかった芝居のような気がしたのです。

私はいつも、その前に上演された作品に答えるような形で新作を書いています。「ハーパー・リーガン」を書いた時は、直前に上演されたのは「モータータウン」でした。この場合は「モータータウン」の非常に性的な性質に対する構造的な応答ということでした。「モータータウン」では銃を持った男――――トラヴィス・ビックルであろうとヴォイツェックであろうと――――が登場して、こうした主人公が芝居を進行させる、非常に男性的というか、男根崇拝的なものでした。

そういうわけで、今回はそれとは違ったタイプの芝居を書きたかったのです。「モータータウン」の構造が非常に男性的だったので、誤解を怖れずに言うならば、意識して女性的な構造で書こうと思いました。ハーパーは確かに追いつめられてはいますが、当初の目的は、父親が死ぬ前に一目会いたいということだったわけです。これに失敗したところから芝居は出発します。彼女の目的はより内的なもので、行動的ではありますが同時に非常に敏感に物事に反応もする。「ハーパー・リーガン」には「繰り返す」という性質があります。あるシーンでイメージが喚起されると、その後のシーンで何度も繰り返し効果を上げて行く――――イメージだけではなくて、人間関係も同じで、意図的に世代を超えて屈折し、繰り返されるようになっています。

神の不在の中で人間はいかに生きるか? 実は三人目の子どもが生まれたばかりですが、この芝居を書いていたのは妻のお腹が大きい頃で、生まれて来るのが女の子であることも分かっていました。自分が無神論者であるということは、私が父親であるということと関係があると思います(子どもたちがあまりに手に負えないから、神などいないと考えるようになったというわけではありません。そうではなくて、家族を持つということによって、生きているというのはどういうことかを熟考するようになり、そうやって考えれば考えるほど、どんな宗教もこの問いに対する十分な答えになっていないと思うようになったのです)。科学について知れば知るほど、私は動物としての人間に魅せられるようになりました。すると、いかに感情的に生きるかということがより厄介な疑問になって行ったのです。これに対する答えの一つがニヒリズムでしょうが、それを実行するのは私には無理です。私はニヒリズムを拒絶しています。ですから、これは愛の可能性、コミュニケーションの可能性についての作品なのです。マリアン(エリオット。この芝居の演出家)が言うには、この芝居の中には曰く言い難く漂う救済の可能性という感覚があるそうです。この家族は真の暗黒によって傷つけられたけれども、そこから一緒に前を向いて進んで行けるかもしれない、そんな場所に辿り着いたということです。

この芝居は、最終的には誰かを信じられるところまで行く、ということだろうと思います。鍵となるイメージはセスの言う、人は自分の頭にピストルを突きつけることが出来るという能力であり、そのピストルを優しく押しのける誰かということ。つまり、誰かが取り上げてくれる前に、まず自分の頭にピストルを突きつけなければならないのです。