About "Forget me not"(前回公演パンフレットより一部抜粋)

オープニング、吹雪の大草原をソリに乗った思いで収集人が通り過ぎる。
そしてフィリップ・ジャンティが膨大な潜在意識から汲み出した様々なイメージが織りなす
世界が繰り広げられる。

我々はこの作品の中で、何度も何度も執拗に無意識と空想の曲りくねった小道に連れ戻される。
誰にでも感じたことのある幼年時代の記憶、失ってまた取り戻した思い出、すでに忘れ去られて
しまったけれど、きっかけさえ与えられればすぐにでも再び現れ生き返る思い出……
そんな様々な思い出のモチーフのコラージュ、それを一人の女性が歩む3つの段階で表している。

幼年期、思春期、熟年期、思い出を語っている舞台は巨大な冬景色の中。
ソリに乗った思い出収集人が集めた思い出は、まるで死んでしまったようにみえる。しかし、
それは徐々に目覚めはじめ、息づいて…。
  • フィリップ・ジャンティからのメッセージ
  • 「忘れな草」初演時 上演メモ

「忘れな草」 2014 来日公演によせて 文:フィリップ・ジャンティ

「忘れな草」の脚本を書くにあたり、私は伴侶で、協力者であるメアリー・アンダーウッドが見た様々な夢を元に、構想を始めました。不思議なことに、彼女の空想した世界には、私のぼんやりとした幼少期の思い出と重なる部分があったのです。

「忘れな草」は様々な思い出をとりあげた作品です。実際に存在した記憶や、その他勝手な想像から作り出された8体のマネキンたち― 彼らは、役者たちと瓜二つで、まるでぼやけた記憶が横滑りし、無気力と活気の狭間に閉じ込められ、押さえつけられ、変形された、そんな思い出が再び記憶の表層に戻り、命を吹き返したいと望んでいるかのようにも見えます。

私はメアリーと、そのようなイメージを表現できるタイトルを探していました。季節は春で、私たちは庭にいました。新しい息吹をいっぱいに含んだ自然に囲まれていましたが、なかなかふさわしいタイトルを決めることができませんでした。私は地面いっぱいに咲く「エゾムラサキ」をふと眺め、その英語名"Forget me not"(私を忘れないで)について考えました。この3つの言葉の中に、明白さと不可解な何かが同居していて、一つの答えとして、私の心に響いたのです。

私の公演はいずれも、努めて言葉を使わないように、そして観客とともに結社を組んで、ストーリーの意味づけを儚くすることで成り立っています。意味づけは観る人ひとりひとりによって変わってゆきます。私が一番嫌うのは、一義的な定義の中に作品を閉じ込めてしまうことです。

作品の中では、多くのことが語られています。観客それぞれが自分自身の言葉をそこに当てはめ、自分自身の記憶の延長をそこに見出すでしょう。観る人自身の心象風景や、懐かしい過去と呼応する「現実と想像の狭間にある空間」、「密やかでありながら、親しみを感じさせる空間」の中に、観客を誘いたいと私は願っています。

この戯曲は、ロマンティックな空想の物語ではありません。人間の内面世界や、自身の中で対立するものとの葛藤を探っていく作品です。ここで言うのは、現実の世界で起こっている社会的な葛藤ではありません。人は心の中で、不安や怖れ、恥辱、欲望、破滅、強迫観念といった感情と向き合っているのです。(作品を楽しむために)大切なのは、無意識の世界に飛び込んでしまうこと。また常にユーモアも忘れてはいけません。なぜならそれもまた、自身の内面探索の手段となるのですから。

近年、私は人の声や歌を作品の中で多用し、「忘れな草」も同様、一人の女優の歌とともに始まります。声は非常に興味深い演劇素材の一つです。しかし言葉は時に、一つの限定された方向や、解釈の中に意味を封じ込めてしまいます。

私たちは、すでに出来上がった説明を差し出すのではなく、観客ひとりひとりが、自分の解釈を持てるようにしたいと思っています。また、官能的な音素材のほうが、台詞の言葉のメッセージよりも、ずっと重要なものになり得るのです。だから最近の作品では、役者に歌わせるようにしているのです。「忘れな草」に出演する若き役者たちは、皆素晴らしい声の持ち主でしたので、多くのシーンで声を使うことにしました。この新たな音楽的要素を追加する為に、改めて作品の全ての骨組みが、考えなおされたのです。

最後に日本の皆様へ、私からのメッセージです。「忘れな草」は、人間の想像領域を探ることにインスパイアされ生まれた作品で、観客ひとりひとりを不思議な体験へと誘います。単なる筋立ての糸を手繰るのではなく、夢の世界に飛び込み、連なる空想のイメージに身をゆだねる用意があなたにあれば、この作品を通して、心おどる驚きの旅が、そしてあなた自身の想像力を映し出す鏡となる何かが、きっと待っているはずです。

「忘れな草」初演時 上演メモ 文:フィリップ・ジャンティ

ロングドレスをまとった人間大の雌チンパンジー‘クラリス’が、人の姿をしたフィギアたちに疑問の眼差しを投げかけようとしている。それらは個人か集団かは分からないが過去の亡霊たちとしてクラリスが出したフィギアたちである。 
クラリスは架空の檻のもう一方のゾーンに属し、彼女が常にそこにいる事が、これら人間達の取るに足りないが悲壮感を掻き立てる行動のバカバカしさを一層強調するのである。
闇から突如、雪景色が現れる。景色は言葉の思い出で埋め尽くされている一方、一人の男が繰り返し、ソリを引いている。

舞台写真
舞台写真

この繰り返しの感情は同様に演者と瓜二つのモデル達の場面でも再び見出される。役者にあまりに近いそのモデル達の顔の動きのなさが病的な様相を与えている。はかない人間を前に、永遠の中で硬直したモデルというこの2つの現実の関係が時間的混乱を生じさせる。

これらの人間達はあたかも自らの命がそれに掛かっているか如く、モデル達に命を移そうとむなしく試みている。奇妙にもこの衝突は我々に人間の命を突如、再発見させている。あたかも我々がそれまで命を経験していなかったかのように。

ルネ・オブリー※の音楽が魅惑的なトランスの雰囲気を作り出している。 メロディラインは我々を過去の息吹きの中に沈みこませ、一方、繰り返される曲構成は列車の車輪の唸るリズムの如く付きまとうような一つの動きの中に我々を引き込む。 
その列車に乗り旅する我々は徐々に催眠状態のスパイラルに引き込まれ、自らの内なる情景を把握して行く。
我々は初めてその情景を見つけるわけだが、それらはずっと前からそこに存在していたわけだ。その奇妙な親しみが気がかりだ。

舞台写真
舞台写真

メアリーと共に私は踊る肉体を発見する―融合、めまい、リハーサル― 舞踏は言葉に尽くせないものを表現でき、また問い掛ける。一瞬ごとに肉体は空間を超え、現実は理解の限界を超える状況下で素材と取り組んだ時に爆発する。
このあり得ない出会いが我々の確信にひびを入れ、底知れない幻惑に理性を捨てる光景への扉を開くのである。

※ルネ・オブリー: 音楽家。ピナ・バウシュ、カロリン・カールソンら著名アーティストの舞台音楽を数多く担当。
ヴィム・ヴェンダース監督作品「PINA」挿入曲をはじめ、映画音楽も手掛ける。フィリップ・ジャンティ作品では、2003年初演「バニッシング・ポイント」の音楽も担当。