「忘れな草」の脚本を書くにあたり、私は伴侶で、協力者であるメアリー・アンダーウッドが見た様々な夢を元に、構想を始めました。不思議なことに、彼女の空想した世界には、私のぼんやりとした幼少期の思い出と重なる部分があったのです。
「忘れな草」は様々な思い出をとりあげた作品です。実際に存在した記憶や、その他勝手な想像から作り出された8体のマネキンたち― 彼らは、役者たちと瓜二つで、まるでぼやけた記憶が横滑りし、無気力と活気の狭間に閉じ込められ、押さえつけられ、変形された、そんな思い出が再び記憶の表層に戻り、命を吹き返したいと望んでいるかのようにも見えます。
私はメアリーと、そのようなイメージを表現できるタイトルを探していました。季節は春で、私たちは庭にいました。新しい息吹をいっぱいに含んだ自然に囲まれていましたが、なかなかふさわしいタイトルを決めることができませんでした。私は地面いっぱいに咲く「エゾムラサキ」をふと眺め、その英語名"Forget me not"(私を忘れないで)について考えました。この3つの言葉の中に、明白さと不可解な何かが同居していて、一つの答えとして、私の心に響いたのです。
私の公演はいずれも、努めて言葉を使わないように、そして観客とともに結社を組んで、ストーリーの意味づけを儚くすることで成り立っています。意味づけは観る人ひとりひとりによって変わってゆきます。私が一番嫌うのは、一義的な定義の中に作品を閉じ込めてしまうことです。
作品の中では、多くのことが語られています。観客それぞれが自分自身の言葉をそこに当てはめ、自分自身の記憶の延長をそこに見出すでしょう。観る人自身の心象風景や、懐かしい過去と呼応する「現実と想像の狭間にある空間」、「密やかでありながら、親しみを感じさせる空間」の中に、観客を誘いたいと私は願っています。
この戯曲は、ロマンティックな空想の物語ではありません。人間の内面世界や、自身の中で対立するものとの葛藤を探っていく作品です。ここで言うのは、現実の世界で起こっている社会的な葛藤ではありません。人は心の中で、不安や怖れ、恥辱、欲望、破滅、強迫観念といった感情と向き合っているのです。(作品を楽しむために)大切なのは、無意識の世界に飛び込んでしまうこと。また常にユーモアも忘れてはいけません。なぜならそれもまた、自身の内面探索の手段となるのですから。
近年、私は人の声や歌を作品の中で多用し、「忘れな草」も同様、一人の女優の歌とともに始まります。声は非常に興味深い演劇素材の一つです。しかし言葉は時に、一つの限定された方向や、解釈の中に意味を封じ込めてしまいます。
私たちは、すでに出来上がった説明を差し出すのではなく、観客ひとりひとりが、自分の解釈を持てるようにしたいと思っています。また、官能的な音素材のほうが、台詞の言葉のメッセージよりも、ずっと重要なものになり得るのです。だから最近の作品では、役者に歌わせるようにしているのです。「忘れな草」に出演する若き役者たちは、皆素晴らしい声の持ち主でしたので、多くのシーンで声を使うことにしました。この新たな音楽的要素を追加する為に、改めて作品の全ての骨組みが、考えなおされたのです。
最後に日本の皆様へ、私からのメッセージです。「忘れな草」は、人間の想像領域を探ることにインスパイアされ生まれた作品で、観客ひとりひとりを不思議な体験へと誘います。単なる筋立ての糸を手繰るのではなく、夢の世界に飛び込み、連なる空想のイメージに身をゆだねる用意があなたにあれば、この作品を通して、心おどる驚きの旅が、そしてあなた自身の想像力を映し出す鏡となる何かが、きっと待っているはずです。