REVIEW

「忘れな草」日本初演時 日本各紙劇評

“心うつ意識下の「マジカル・ショー」” −朝日新聞−
フランスのフィリップ・ジャンティ・カンパニーはダンス、パントマイム、マジックに人形を絡ませ、意識下の世界に光をあてる。五度目の来日公演「忘れな草」は深く心をうつ。
女の主題は男たちとの格闘である。やっとその一人をつかまえた途端、彼は人形に変わる。
人形に、女の人生がのみこまれてしまう不気味な九十分の「マジカル・ショー」。ソリが実物大で現れ、女を積んで去るラストが美しい。

“美しく幻想的なステージ“ −産經新聞−
フィリップ・ジャンティ・カンパニーは、人形劇、ダンス、パントマイム、演劇などをミックスし、ダイナミックかつファンタスチックな舞台を実現させてきた。五年前に来日した「いのちのパレード」、昨年の「漂流」と、世界ツアーの一環として行った日本公演も成功させ、内外の舞台人に与えた影響も大きい。
新作の「忘れな草」は、カンパニーを主宰するフィリップ・ジャンティの幼年時代の経験や夢をもとにした作品という。五人のコメディアンと二人のダンサーによって、ひとりの女性が歩んでいく三つの段階として描かれた舞台化には、夫人で振り付けを担当するマリー・アンダーウッドの助言もあった。
雪景色の中でソリに乗って思い出を拾い集める人物がオープニングに登場する、美しく幻想的なステージだ。

“人か虚像か、夢うつつ” −日本経済新聞−
文楽に学んだ人形創作家でもあるフランス人、フィリップ・ジャンティの日本公演「忘れな草」は、人形と男女の役者が巧みに混じり合い、夢とも現実ともつかない特別な空気を醸しだす。
どれが人形で、どれが生身の役者なのか。ジャンティは、観客に目をこらさせ、判定を促させておいて、次の瞬間には「生身」の方の頭部を少女役の女優に思い切り踏んづけさせる。思わずイスから腰が浮くような驚きをそれはもたらすが、「生身」だったのは肩から下だけ。見る者の意識をはぐらかすトリックが鮮やかだ。
「下半身だけが生身」の動物が登場したり、空気をはらんだ布の多様なマジックにだまされたりしていると、そのうち、もう生身か人形かの判別はどちらでもいい、という気になる。

「忘れな草」フランス各紙劇評

“まぼろしの舞踏会” −ル・モンド−
「Forget me not」は、幼い頃を忘れることのできない一人の少女の歌。
彼女は、幼い時代の思い出の中で、詩情や恐怖、笑いを通じて自分を悟る。
フィリップ・ジャンティはとてもソフトなペーソスの持ち主で、様々な感情の昂まりを楽しみ、夢想している。私たちは時間の経つのを忘れすっかり魅了されてしまうのだ。


 “魅惑の旅” −ユマニテ−
一貫したリズムを持つこの作品は、舞踏、人形、驚くまでの人間のぶつかり合い、そして時として物や人間との間に生じる官能的な混ざり合いなどが全体に網羅されている。音楽は、悲しく物憂げにそして陽気に魅惑的に我々の耳を刺激し、官能の世界へと引き込んでいく。
幕開から結末まで作品自体が2つの短いシークエンスの中にはめ込まれている。この二つの時空の間で我々は幼年時代からの一人の女の記憶の中へ“フラッシュ・バック”しながらそして自然の広大さの中にあって入り込んで行くのだ。そして人間の中に埋もれた動物性を取り戻すがごとく、人間的行動を前に、動物的な驚きを取り返してゆくのである。つまりは、見ている者一人一人がそれを体験できる訳である。


“The Beauties and the bags” 
−THE TIMES(LONDON)−
ダンスと演劇の間のどこかに位置するもので、言葉はないが、マイムではない。生身の演技者達と、生きているかの様なマリオネット(人形達)とのブレンドであり、しかもパペットショウ(人形劇)とは一宇宙ほどもかけ離れている。「忘れな草」は、ジャンティの他のすべての作品と同様にジャンルに分類できないものである。

これは生き物とそうでないものの間のおじけづかせる様な相互作用であり、これがあまりにも巧妙に演じられるので、しばしば操られているのか操っているのか区別ができなくなってしまう。特に、ひとりのダンサーが猿であり、猿の背中にいる少女でもあるという素晴らしいソロのシーンではまったくその通りである。
ジャンティの無秩序なイメージは、20年間彼のパートナーであるメアリー・アンダーウッドのきっちりした現代的振り付けにより規律と優美さを与えられている。しかしながら7人の多様な国籍の強いダンサーと俳優のエネルギーと才能がこの規律と優美さを共にもたらしたもので、それが「忘れな草」を長く後まで記憶に残る作品にしている。